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アメリカの自由とイギリスの自由

久しぶりに「自由と規律」を少しだけ読み返した。
録画しておいた、去年のラグビーワールドカップの決勝戦「イングランド 対 オーストラリア」を見た。

スポーツはルールが存在し、守られることによって成立する。
ルールはプレイヤーがゲーム中に行える行為の数を減らしこそすれ、
そのルールを守る限りにおいてはプレイヤーに自由を約束する。

この絶妙なバランスは実際にゲームをプレイすることで実地的に計られ、調整され、固定化される。
現代スポーツの大半がイングランドで発祥した理由は、イギリス人が秩序を重んじる国民だからである。

何故ベースボールやアメフトが僕の目にはアメリカ的に映るのだろう?
華やかなホームランやタッチダウンに見られるショウ・スポーツ的性格からだろうか?

違う。
そこにスポーツ的秩序の営みが見いだせないからだ。

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世界史を考えたときに、その時代時代ごとに求められる精神性がある。

奴隷制を正当化して強固な「国家」の概念を作り上げたギリシャ人。
中世の闇の後に訪れた華やかな植民制の時代に秩序を求めたイギリス人。
産業が発達し、“何でもあり”の自由精神で台頭したアメリカ人。

次の時代にはどんな精神性が求められているのだろうか?
ふとそんなことを考えた。

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