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何のためのセキュリティーか

セキュリティー技術の有効な使い方について考えた。

コピーコントロールやアクセスコントロールに代表される権利を守るだけのセキュリティー技術であれば、結局のところ物理レベルのものに勝るものはない。本やレコードが物理的なボトルネックとして存在していた時代であれば、セキュリティーという考え方なしに複製物の拡散を防ぐことができたからだ。
出版ビジネスが苦境に立っているとはいわれるが、「海賊版が出回って売り上げが減った」とかタコなことを言わずに済んでいるのはこのへんに理由によるものだと思う。

アナログな複製メディアの時代、著作権者が求めていたのは「より安価に複製が可能」で、「より流通経路に乗せやすいもの」であり、大容量なデジタルメディアで劣化も少なく大量生産を前提にすればスタンピングのコストも安く済む光ディスクはその目的に合致していた。
だからこそCDを使った音楽ビジネスは2000年には世界あわせて250億枚ものCD売り上げを記録するような絶頂期を迎えることができたのだと思うし、そのことだけを考えてみれば光ディスクが開発された目的も達成されたようにも思われる。

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ただし、音楽CDの規格(Red Book)が制定された1981年に、コンピューターが猛烈に進化して一般家庭に入り込んでデジタルメディアを自由自在に扱えるようになり、インターネットのようなものが一般に普及することは予想されていなかった。デジタルなデータが記録されたCDからは音楽がいとも簡単に抜き出すことができ、それをインターネットで世界中に配ることができる・・・、というのだからたまったものではない。

そもそもインターネットというメディアの出現は(よほど巨大なデータでない限り)物理的な制約を受けずにデジタルなメディアをやり取りすることを可能にしたわけであって、ここに古来からの著作権者の目標であった「安く」「拡げる」技術の結末を見ることが出来る。
ではここで著作権者の関心の第一、「儲ける」ことを考え始めるとどうなるか。そう、古き良き昔の時代と同じように「縛る」こと。著作権という盾とセキュリティーという剣を使ってメディアをがんじがらめにした上でコピーさせないようにすること。これが彼らの選ぼうとしている道だ。

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さてこのあたりからようやく本題。
こうした流れを見てみると、著作権とかそういった小難しい議論は抜きにして「デジタルになったメディア」の「拡がり」という意味でパラダイムの変換が起きていることに気づく。物理的な制約をなくしたメディアは必然的に「自由」になってしまうのだ。

自由になりうるメディアを無理やり縛るとどういったことが起きるのだろう?昔話にあったように「王様の耳はロバの耳」と木のウロの向かって叫んでしまえばその場でその情報は発散されていたものが、「ほぼ完全な形」で録音されてほとんどリアルタイムで全世界に自由に複製されて流されてしまうようなシステムがあったとしたらどうなのだろう?
そのひとつひとつの録音されたメッセージ(メディア)が完全な形で複製可能である以上、一旦広がってしまったメッセージをコントロールする労力が途方もないものであることは容易に想像できるし、そもそもそれをコントロールしようと考えることが自体が馬鹿馬鹿しい行為であることに気づかされる。この辺が「メディア(=メッセージ)」の特殊なところだ。
つまり、王様の耳を見てしまった床屋は一生口をつぐみ続けるしか生き延びる術がないわけだ。

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さて、ここで「もしこのメディアが流れる通路を牛耳ることが出来れば」と考えることにしよう。要するに、セキュリティー技術でいう「通信経路の暗号化」という常套手段だ。これはネットワークに限ったことではなくて、光メディアやその他のメディアでも特定の機器からのみ再生可能にすることで達成できる。

これは一番単純に見えて、一番徹底することが難しい手法だ。言ってみれば、「自分が作ったメディアは自分で掘ったトンネルしか通しませんよ」というわけで、メディアが「広がる」ことを「意図的に」邪魔しているのだから至極当然の話である。もちろんDVDのセキュリティーみたいにきちんとした「規格」として成立させて啓蒙活動を行えば流行らせることはできるけれど、結局セキュリティーの一番の弱みである「運用」という段階でセキュリティーは無力化されてしまう。これは最新のAV機器のメディア伝送に使われているHDMIにしたって同じことだ。

その他にもそこかしこでDRMやらコピーコントロールやらアクセスコントロールなんていう素敵な単語を使って夢のような新しい世界を作ろうとしている人たちがいらっしゃるようだけれど、これらの技術がようやく「自由」に「拡がる」ことができるようになったメディアを縛りつけてしまう時代錯誤な考えに基づいた技術であることに変わりはない。

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ではセキュリティー技術は何に使えばよいのだろう?
このあたりで「著作権」が目指していた目標を改めて考えてみよう。

名和小太郎さんの「ディジタル著作権」という本には、著作権像の見本例として以下の項目が挙げられている:

(1) 著作者は、自分の著作物の表現を複製する人から、その対価を徴収できる (2) 著作者は、自分の著作物の表現を無断複製する人に、制裁を与えることができる (3) 公衆は、著作者に(1)および(2)の特権を報奨として与え、これによって当の著作者あるいは他の著作者の創作行為を刺激し、ひいては社会における著作物の生産量を増やすことができる (4) 公衆は、著作者への(1)および(2)の特権付与を一定期間にかぎり、その後においてはその著作物を自分たちの共有財産にすることができる

こうして見てみると、著作権は著作者および公衆双方にとって有効であることが期待されていることが分かる。目の前の利益にしがみついてただひたすらコピーができないようにするのが「著作権」ではなく、創作行為に対して価値を与え、その価値を守りつつ有効活用することこそが著作権の正しい使われ方なわけだ。

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さて、既存の考え方では「拡げるコスト」がある一定のコストであることを前提を元にメディアは売られてきた。だがこれからは「拡げるコスト」が限りなくゼロになり、「誰しもが拡げる力を持つ」ことになった世界を前提に考えていくべきだと思う。
そうした場合にセキュリティー技術はどのように使われるべきだろうか?
とりあえず現在の個人的な意見としては、

(a) 著作者情報の保持と報酬の請求権の提供
(b) メディアを拡げるためのからくり
(c) 「ご開帳」的ありがたさの表現(?)

このようなものとして活用されると面白いのではないかと思っている。
(a)は、それがそのまま単純にコピーコントロールやアクセスコントロールに結びつくべきものではないと思うし、セキュリティー技術をうまく用いることで(b)を成立させることも可能だと思う。
何にせよ、公衆の利益を考えないセキュリティー技術は長い目で見れば確実に廃れるはずなので、もっと面白いことをやれたらいいなぁ、と思う今日この頃だ。

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なんだかまとまらない文章になってしまったけれど、再編集するのが面倒なのでとりあえず掲載しておこう・・・。

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