面白い quote を見つけた
「「しょぼんとした祖国」でいい」について
以前森嶋通夫が、日本に大不況が来ない限り、日本人がエコノミック・アニマルから脱することはないだろう、と言っていたことを思い出した。
長く、社会全体に閉塞感を感じさせた不況は来たけれど、日本人がエコノミック・アニマルから脱したようには到底見えない。
というか、むしろ悪化したようにさえ思える。
戦後日本人が物質的豊かさを求めた、というのは、もちろん正しいだろう。
ただ、幸せの尺度、というのは、多くの場合、その人から見て多分にローカルなスコープで、相対的に測られているものだ、と思う。
例えば「海外旅行に行った」、「カラー(薄型)テレビを買った」、「高い時計、バッグを持っている」等々のアイテムはお手軽に自分を differentiate する素敵なアイコンであり、シンボルなのだろう、と思う。
生活のバランスを乱してまでも物欲をマキシマムに高め、自分の道を突き進むのがオタクのあるべき姿だとするならば、グッチやらシャネルやらを追いかける女性もみなオタクと呼べる・・・なんて言ったら言い過ぎな気もするけれど、結局アニメグッズやら初回限定を追いかける彼らの心理だって、何らかの形での differentiation を追い求めているのだ、と言えるのではないだろうか。
さらに、「すごいですねぇ」なんて言われた時の「自分なんてまだまだですよ」オーラがそっくりなのも、ただの偶然ではあるまい。
つまり、日本式に物質的豊かさを求めていくと、国民総オタク化を目指すことになってしまうのではないだろうか?というのが自分の心配だ。
内面的でキャッチーではない「幸せの形」は、この社会では重要視されずに、ほとんどの人々に忘れ去られようとしている気がする。
例えば、自分だったらロンドンのハイド・パークの傍らに住んでいた時代、夏の晴れた休日に友達と公園に乗り込んでサッカーして、いつのまにやらとんでもなく上手いブラジル人や、ローカルなイギリス人なんかが混じってきて、ミニ・ゲームをやって・・・なんてのが一番の娯楽だった。
残念ながら、東京で同じことをするためにはまずブラジル人の移住計画と、巨大な公園設計のための途方もない土地の買い占めが必要になってしまい、自分が生きているうちに同じ楽しみ方が実現可能になるようには到底思えない。
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中島義道氏が、”「エリートの生き方」をその他大勢に押しつけるのはそもそも間違っている”、ってのには完全にagreeだ。
問題は、日本人が求めることを選んだはずの「物質的豊かさ」なのに、その道半ばにして行き詰まりを見せている、あまりに貧弱な「物質的豊かさ」の現状だろう。
「世界で一番、物質的豊かさがマジョリティーに保証されている国は?」と聞かれたら迷わずアメリカを挙げたい。
家といい、食べ物といい、やはりアメリカは驚異的だ。
日本で「節電・節水」、なんて貧乏ったらしい張り紙を見ると絶望的な気分に陥る。
「家を出る時は電気をつけましょう、でないと泥棒に入られますからね」なんて引っ越し先で言われる国に住むことが幸せなのだ、と言いたいわけではないし、節電が無意味だ、と言いたいのでもない。
けれど、必要に応じて必要な資源を自由に、そしてリーズナブルに使うことができる、というのは、些細なことのように見えるが、人間的な生活を送る上で非常に大きなプラスだ。
タイや、中国なんかであれば、彼らの食生活の豊かさを痛いほど感じることになる。
女中や、運転手、それに準ずるクラスの人々でさえ、吉野家や、ひどい材料のファミレスなんかよりも相当に豊かな食生活を送っている。
日本の場合、国民全員中流階級で、同じ価値観を共有している、なんて幻想が作られてしまったために、「自分なりの幸せ」を追いかけにくい空気が生まれてしまったのだろう、という考えもあるかも知れない。
けれど、生活者としての人間が、生活していく上で感じる小さな幸せの積み重ね。
個人的には、これが一番大きな幸せではないか、と思うのだ。