第6回 亀治郎の会

第6回・亀治郎の会」を見に国立劇場へ。

いつも亀治郎さんらしいチャレンジで楽しませてくれる「亀治郎の会」なのだけど、忙しかった昨年スキップした分(?)、今年はパワーアップして大劇場への進出を果たしている。そのせいか、演目にも力が入っていて、亀治郎さんらしさとは少し違った役柄であるように思われる「俊寛」、それに女形の踊りの最高峰「娘道成寺」の二本立て。

前々から開催は知っていたものの、山登りの計画&テニスの試合と被ってしまっていた関係でチケットを取らずにいたところ、しばらくしてチケットが完売。
山登りの先延ばしが確定になり、「この演目を逃すのは惜しい」とテニスの試合よりこっちを優先することにし(コラ)、おけぴを利用して一等席のチケットを入手(2階の5列目の真ん中へん)。

で、今日も例によって客層のほとんど(90%)が女性。
中高年も多いけど、結構若い人も多い。亀治郎さん目当てで来てるお客さんだから、歌舞伎座や演舞場とはまた客層が違っていてなかなか面白い。間違いなく、亀治郎さんは歌舞伎の世界に沢山の人を誘うことに成功しているように感じる。

**

「俊寛」は、恩赦を伝える書状を手にとっての「ない、ない、ないないないないない・・・」の台詞に万感の思いが詰まっていて、こちらまで泣きそうになってしまった。こんなに熱い演技なのに、その後もこれ以上に熱い演技が続く。
餓鬼道に落ちて、というよりも半ば狂人のようになって船を見送るラストシーンの姿は、「悲しさ」とか「寂しさ」といった感情をひっくるめた実に「人間らしさ」を持った俊寛の姿を描くことに成功していたと思う。
親子でにらみ合いをするシーンは楽しかったけど、やりすぎ感は否めないかも。

俊寛って、いつもヨボヨボのじいさんみたいな姿で出てくるから60過ぎとかだと思ってたのだけど、意外にも原作では30代とかなのね。あんなひどいとこに3年も住んでたから急激にフケちゃったのですかね。

船が下手が出てくるのは澤瀉屋の形なのだそう。
蔓に掴まって岩山に登る演出は、猿之助さんも前にやっていたことがあったのだそうな。また、別れのシーンで「未来で」と言い交わすのは、前進座の翫右衛門丈がはじめた形とのこと。
翫右衛門というと、山中貞雄さんの映画の印象が強いけれど、本業の歌舞伎でも新しい試みをたくさんやった人らしい。

**

「娘道成寺」は、導入部分の「見たか聞いたか」を端折って「亀治郎に始まり、亀治郎に終わる」という感じの演出。浅い位置の背景画が開いて、花子が道成寺に向かうことが強調されるシーンはなかなか新鮮でよかった。

玉三郎さんのような色気はさすがにないけれど、これまで見知っていた亀治郎さんらしいどこか笑いを誘うような女形(e.g. パルコ歌舞伎の堀部ほり)とは異なり、簡単には触れることのできないような、見ているものに畏怖を覚えさせるような花子を見事に演じていた。

最後の鐘の上のシーンはオリジナルの演出なのでしょうかね。
あそこまで派手にやっちゃうことには賛否両論ありそうだけど、まぁ一種の物の怪なわけだし。あれはあれでよいのではないかと思った。

**

亀治郎さんの舞台を見ていていつも感心するのは、彼が「分かりやすさ」と「面白さ」というもののバランスを強く意識して芝居を組み立てているなぁ、ということ。

今回それを一番強く感じたのは、「娘道成寺」の踊りで何度も何度も(しつこいくらい)鐘を見上げて、鐘への執着ぶりを強調していたこと。仮に「道成寺」のことを全く知らない人が見ても、冒頭の坊主との会話、それに花子のあの鐘に対する態度によって何かを感じ、踊りのダイナミズムをより深く楽しむことができるように仕向けていたように思う。

日常のすぐ近くに芝居があり、落語があり・・・という時代から、僕たちはまだ半世紀も離れていない。それなのに、今の僕たちの世代にとって、歌舞伎やその他の演芸はほとんど縁のないものになろうとしている。
そこに当たり前のように存在している時代のコンテキストこそ、こういった演芸を身近に繋ぎとめている見えない「手」だ。
最も身近にあるものこそ、最も先に失われてしまう。

歌舞伎にせよ文楽にせよ、こういった素養を持っていないと分からないことだらけになってしまって、どんどん「難しいもの」として遠ざけられてしまう。
でも、「歌舞伎」は「傾く」が語源とされるくらい、決まりきった形式や、厳密な決まりごとに捉われない自由さを持っている。この自由さゆえにこそ、こういった時代性から切り離されてもある程度大丈夫なタフさを備えているのではないだろうか。

亀治郎さんは、そのことをよく分かった上で、歌舞伎を上手にぶっ壊しながら、美味しいところを選び出して、極上の舞台を演出する努力を続けているのだなぁ、ということを感じた。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

京劇 - 加藤徹

加藤徹さんの「京劇」を読んでみた。
京劇ってのは中国を代表する芝居で、ド派手なメイクと過激(?)な立ち回りで有名なアレ。


Title: 京劇―「政治の国」の俳優群像 (中公叢書)
Author: 加藤 徹
Price: ¥ 1,943
Publisher: 中央公論新社
Published Date:

初心者にも読みやすい京劇の本だと思う。
京劇の歴史に名を残す人々の生き様が丹念に綴られていて、各章の間に「幕間戯」という形で京劇の基本的な知識が上手にまとめられている。

現在「京劇」と呼ばれている芝居の形が成立したのは、今から約200年前。乾隆帝の治世の末期である1790年に、安徽省の高朗亭が彼の一座を率いて北京にやってきて好評を博し、安徽省のお隣の湖北省からも劇団が北京にやってくるようになり、その地で影響を及ぼしあって京劇の原型を作り上げた。

中国の各地で楽しまれていた地方劇が北京にやってきて、様々な演劇手法が絡み合うことで成立した「京劇」は、元々民による民のための娯楽だった。この「民へのコミュニケーションチャネル」は、皇帝の玩具として、あるいは為政者による広告塔として、さらには「忌むべき古い中国の象徴」として、様々な形で激動する中国の近代史に揉まれ続けた。

極論してしまうと、京劇が歩んできた200年間の道のりは、乾隆帝の治世である清の絶頂期から、欧米・日本の侵略による「失われた」100年間を経て、国共内戦と文化大革命へ突き進んだ中国の近代史そのものと言うことができるのかもしれない。

江戸時代の歌舞伎も常に幕府からのプレッシャーを受け続けたわけだけど、「政治の国」中国の京劇は、そういった「プレッシャー」とは質的に全く異なる影響を現実社会から受け続けた。

**

さて、この京劇が物語の主軸に置かれている映画「さらば、わが愛~覇王別姫~」。
日本でもよく知られている映画だけれど、この作品には京劇と中国の近代史が詰まってるなぁ、ということを実感。

さらば、わが愛 覇王別姫さらば、わが愛 覇王別姫
リー・ピクワー リー・ピクワー

アスミック 2005-11-25
売り上げランキング : 3727
おすすめ平均

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

京劇の歴史上よく知られているエピソードが数多く取り入れられていて、清末から中華民国時代、日本による占領から文革まで、京劇とその俳優達が歩んできた道が分かりやすく描かれている。
一部誤解を誘うような箇所があるとはいえ、京劇という文化を世界に知らしめたという意味で大きな価値を持った作品だと思う。

自分が歌舞伎を見るようになったのもこの映画の影響だし(“日本には歌舞伎があるじゃん”)、今見てもなかなかパワーを持った作品だと思う。
ちなみに、今年の3月に渋谷のシアターコクーンでやってた舞台は自分の中ではイマイチ。悪くはないんだけど、ついつい映画と比べてしまうことになるから、ちょっとやそっとの出来映えじゃ満足できない。

映画に関することで、興味深かったことを何点か。

- 京劇の「覇王別姫」は、中華民国時代の新作(1921年)。名女形として知られた梅蘭芳が演じたのが初演。

- キセルを口に突っ込まれて、引っかかっていた台詞が言えるようになる、というエピソードは実話がベース。1915年生まれで、名優として知られる裘盛戎が幼い頃に同じく京劇俳優だった父に仕込まれていた際のエピソード。突っ込まれたのはキセルではなくて、戒尺という師が弟子を叩くための板だったらしい。

- 主人公が科班と呼ばれる京劇学校を抜け出して、街に来ていた京劇を見に行くシーンもまた、裘盛戎のもの。当時の京劇は多分にギルド化されており、それぞれの劇団に「芸風」があった。演劇を学んでいる身で他の劇団の芝居を見ることは御法度とされていた。

- 文革の最中、京劇の役者が燃えさかる火の前で自己批判を強いられるシーンは、1966年に起きた孔廟事件がベース。造反派によって京劇団から持ち出された山のような衣装が北京の孔子廟で燃やされ、京劇の作家や俳優達が連行され、暴行を受けた。大事な衣装が燃えていく様を目の当たりにした俳優の馬富禄は、必死の抗議を行ったが、全く聞き入れられることなくさらなるリンチの嵐にさらされた。

**

京劇という芝居のあり方や変移の仕方には、中国という国の面白さがそのまま現れているような気がする。
晩年の毛沢東が「古典京劇」を見ることを望み、秘密裏に古典京劇が映像として残されたというエピソードがなかなか印象的だった。

ちなみに、同じ著者による「貝と羊の中国人」もなかなかよい本。
「京劇」はそこそこボリューミーな本なので、とりあえずこの本あたりでウォーミングアップしておくとちょうどよいかもしれない。

貝と羊の中国人 (新潮新書)貝と羊の中国人 (新潮新書)
加藤 徹

新潮社 2006-06-16
売り上げランキング : 23971
おすすめ平均

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

| | Comments (0) | TrackBack (0)

歌舞伎ネタいろいろ (新橋演舞場の5月歌舞伎・第六回亀治郎の会・ふるあめりかに袖はぬらさじ)

今日は、会社をサボって演舞場で歌舞伎鑑賞(昼の部のみ)。
どこのOLだよ・・・っていうか、今どきのOLは歌舞伎なんて見ないか。
そもそもOLって言葉が死語だよ・・・。

裾野に済む知り合い(I井さん)のご厚意で、前から4列目の一等席からの観劇となった。
こういういい席で見てしまうと、次に後ろの席から見た時に切ない気分になるのがよろしくない。

**

一幕目は、染五郎さん&亀治郎さんの毛谷村。
1時間20分の芝居だけど、なかなか見所が多く、かつ物語の流れがはっきりしていてナイス。
主人公の六郎は、爽やかな染五郎さんにピッタリの適役。
亀治郎さんのお園は、ちょっとした仕草や動きが実に丁寧で、なまめかしい。

二幕目は長唄、清元、常磐津の踊りもの三連ちゃん。
藤娘は初見だったけど、福助さんの踊りは全体的にちとオーバーアクションかなぁ、と感じる。
染五郎さん&亀治郎さんの三社祭は、見ていてとにかく楽しい踊り。動きもあるし、見ていて飽きない。悪玉・善玉というアイディアがなかなか面白い。
勢獅子も、なかなか賑やかで踊りで楽しめた。

三幕目は、長谷川伸さん作の一本刀土俵入。
シンプルな筋だけど、余韻の残る台詞やシーンが印象的で、実によい作品。
ミニマムな構成要素で、マキシマムな劇的効果を誘い出しているなぁ、と思った。

**

P5219410_2

ロビーのパンフレットで、8月に「亀治郎の会」があることを知る。
亀治郎さんは、若手の役者さんの中でも特に面白い演技をする人。

これまでは国立劇場の小ホールでの開催だった「亀治郎の会」も、次回からは大ホールになるようだ。
この人がやってきた役は大抵好きだけど、特に面白かったのが2006年3月のパルコ歌舞伎。これは、「歌舞伎ってよくわかんない」とか、「自分の趣味じゃない」とか思ってる人にも是非見て欲しい最高に楽しい舞台。
DVDが出てはいるのだけど、少々お高いのが残念。

**

もう一つ歌舞伎ネタ。
2007年12月の歌舞伎座でやっていた、「ふるあめりかに袖はぬらさじ」がシネマ歌舞伎で上映されるらしい。
今後また歌舞伎として上演される可能性が高いとは思うけど、今回のような豪華キャストでやることはないと思うので、未見の人にはオススメ。

有吉佐和子さんのクールかつ現実的な視点の脚本が冴えてるし、玉三郎さんのお園がとにかく素晴らしい。
ただの庶民で、志も野望もなくて、たくましく毎日を生きようと四苦八苦している姿には、川島雄三監督の「幕末太陽傳」の佐平次が重なる。

| | Comments (3) | TrackBack (0)

茨木のり子さんの「二十歳のころ」

茨木のり子さんの詩を読んでいる。

おんなのことば (童話屋の詩文庫)おんなのことば (童話屋の詩文庫)
茨木 のり子

童話屋 1994-08
売り上げランキング : 3597
おすすめ平均

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

彼女の詩には、なんともいえない優しさと厳しさが同居していて、ドキリとさせられると同時に、自分をじっと見つめ直すきっかけを与えてくれるように思う。

随分前に、立花隆さんが学生と一緒に「二十歳のころ」というプロジェクトをやっていて、詩人・茨木のり子さんのものがウェブに掲載されている。
http://www.sakamura-lab.org/tachibana/hatachi/ibaragi.html

「なんだか、普通っぽい人だなぁ」、というのが第一印象。
詩人っていうと、どこかエキセントリックだったり、変に堅苦しかったり・・・といった勝手なイメージがあるのだけれど、茨木のり子さんの言葉は、彼女の詩のように、自然で、等身大で、好感が持てた。

自分を見つめること。
自分のものをしっかりと持つこと。

言葉ってのは不思議なもので、切り取られた意味そのものに意味はないのに、それがうまく積み重なっていくことで、ひとつひとつの言葉が持っている意味以上のものが生まれてくるように感じる。
言葉は、冷たくて非情なものでもあり、優しくて包み込んでくれるものでもあるのだ。

**

茨木のり子さんのことを知ったのは「選択」という雑誌。
もともと、タイに住んでいる父親が愛読していたもので、いつもタイに転送してくれていた祖父が亡くなった一昨年以来、父親の代わりに自分が愛読している
(「お前が転送しろよ」という意見もある)。

真剣度の高い雑誌で、その分だけひとつひとつの記事の密度が濃いので、毎回届く度に「また来たか」とじっくり付き合って読むことにしている。

経済界、日本の政治関連の記事は少し退屈ではあるけれど、自分の知らない世界を届けてくれるこの雑誌は、テレビを含めてアナログなメディアにほとんど触れていない自分にとって、なかなかよい刺激を与えてくれるように思っている。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

写真について

学校の後輩(テニス部で一緒だった)で、主にネパール方面で写真を撮っている公文健太郎に久しぶりに会った。
去年の9月、「水になった村」という映画を見に行った時に偶然会って以来。

だいすきなもの―ネパール・チャウコット村のこどもたち
だいすきなもの―ネパール・チャウコット村のこどもたち公文 健太郎

おすすめ平均
stars小さなことが素敵に感じられる作品

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

彼が最近になって出したという、写真絵本を見せてもらった。
写真を伸ばし気味に使って、メッセージを入れ込んでいくことで、多くの人に対してアピールできる本になっている。彼の写真に興味を持った人でも、最初から本気モードの写真集に手を出す人は少ないだろうから、こういった形で入口のようなものが提供されるのはよいことなんじゃないかなぁ、と思う。

とはいえ、個人的に思うのは、こういった手法で写真等の作品に触れる敷居を低くしたことを「子供向け」と言ったりすることには大きな語弊があるのではないか、ということ。

子供は決して「分からない」わけではない。
単純に、子供は「大人のルール」に慣れていないから、そういったルールをできるだけ取っ払って、ナマモノをできるだけそのままの姿で見せてあげることが大切なことなのだと思う。

大地の花―ネパール 人々のくらしと祈り 公文健太郎写真集
大地の花―ネパール 人々のくらしと祈り 公文健太郎写真集公文 健太郎


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

彼の最初の写真集「大地の花」は、現在amazonでは品切れ中らしくって、自分はヤフオクで売りに出ていたものを入手した。彼がまだ本を出す前にもらった絵葉書の写真の中で、何枚か特に気に入った写真があったのだけれど、それらの写真をじっくり見ることができて、嬉しくなった。

**

彼の写真を改めて見ていて、写真の中の笑顔が実に素敵だなぁ・・・なんて考えていたら、「写真って、写した対象物以上に、撮っている人自身のことを写すんだなぁ」なんてことに気付いた。
公文本人が物凄く快活&笑顔を絶やさないヤツなので、写真にもそういったこと全てが写るんだなぁ・・・と思って、写真の面白さと怖さを同時に感じたのだった。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

パルコ歌舞伎 決闘!高田馬場

三谷幸喜さんと若手の歌舞伎役者によるコラボレーション。2006 年の 3月に PARCO 劇場で上演されたもので、チケットが入手できずに見逃していたので DVD で見ることにした。

主人公は中山安兵衛。後の忠臣蔵義士のうちの一人で、叔父の果たし合いの助太刀で敵数名を討ち取ったとされる「高田馬場の決闘」が有名。この歌舞伎も「高田馬場の決闘」が物語の主軸にあるのだけれど、「酒を飲んでいて叔父の果たし合いに気付かず、叔父の置き手紙を見て慌てて飛び出していった」という史実を面白おかしく脚色した設定となっている。

全体的に、歌舞伎らしい演出を効果的に使いながら、現代劇のようなスムースさと分かりやすさを前面に出しているように思う。楽しい台詞がぽんぽん出てきて、役者さんたちはあっちへこっちへと飛び回り、さらにはフラッシュバックのシーンまで出てくる・・・という憎らしいほど上手な脚本。若手の役者さん達も、楽しい脚本に釣られるようにして、演技を存分に楽しんでいる。

染五郎さんの「怠け者で酒癖が悪いけど実は・・・」という安兵衛はなかなか魅力的でハマっている。亀治郎さんの演技は相変わらず絶好調で、型がしっかりしている上に一癖も二癖もあってハチャメチャに楽しい。川島雄三監督の映画における小沢昭一さんみたいな人だ。

実に充実した舞台で、笑わされ続けていたらいつの間にか終わってしまった・・・という感じ。ただ、素晴らしく楽しんだのも事実だけれど、歌舞伎の面白さはまだまだこんなもんじゃないぜ、と感じたのも事実。

歌舞伎の凄さ(恐ろしさ)っていうのは、同じ脚本が繰り返し繰り返し上演されていくことで、ひとつひとつの演技が洗練されていって物凄い高みに到達できることなんじゃないかと思う。現代において歌舞伎が理解されにくくなっているのは、単純に昔の人が共有していた時代のコンテキスト(昔の人にとっての義経、勘平とお軽、それに曽我兄弟なんかは、教わることもなく誰もが知っている常識のようなものだったはず)が前提になっているからで、そのあたりをサラッと理解してしまえば、日本人にとってこれほど身近で、魅力的な舞台はないのだ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

柳田格之進

毎月家に届く「選択」というマニアックな雑誌に、「柳田格之進」なる落語の話が載っていたので、古今亭志ん朝さんのものを図書館で借りて聞いてみた。

まず、志ん朝さんの話っぷりは父志ん生さんの影響を強く受けているようだ。枕のネタや、ところどころの話しっぷりに志ん生さんの雰囲気を感じる。
「柳田格之進」は、もともと講談として演じられていたものが落語に写されたものらしい。そのせいか、普通の落語よりも客観的な描写が多く、人物描写も緻密にできているように思う。「人情噺」として出色の出来だ。

「浅草は安倍川町の貧乏長屋に移り住んだ廉直な浪人、柳田格之進と娘の二人。娘は、何もせず家でゴロゴロしている父に碁でも打つように、と勧める。碁会所で気の合う友人を見つけ、裕福なその友の家に招かれるようになった格之進だが、あらぬことに疑いをかけられて・・・。」というのが話の筋。

まず、「柳田格之進は廉直な武士で、馬鹿がつくほどの正直で曲がったことが大嫌い」という設定がこの物語の骨格になっている。真面目な人ほど何とやら、と言うように、真面目な人ほど他人の策略や責任逃れの対象になってしまうもの。これは武士の世界でも町人の世界でも同じなのだ。

話の骨格がしっかりしているせいか、物語全体を通しての細やかな情景描写も含めて実に楽しめる一席である。

**

似たようなシチュエーションの話として、2006年2月の歌舞伎座で菊五郎さんが演じた「人情噺小判一両」がある。こちらも、貧乏長屋に住みながら武士のプライドを捨てずにいる廉直な浪人の物語なのだけれど、ほんの小さな出来事から、全く異なる結末に至ってしまう。

登場人物の心理描写が実に繊細で、地味ではあるものの、優れた演技に支えられたとてもよい芝居であった。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

仮名手本忠臣蔵 (2007年2月・歌舞伎座)

歌舞伎座で、忠臣蔵を通しで見た。
アメリカ出張から帰った翌日、朝から一日ぶっ続けの芝居鑑賞はなかなかハードだったものの、あらかじめ予習しておいた脚本のおかげで存分に楽しむことができた。

大序はまったりとした古風な演出で、冒頭では人形を使って口上を述べさせる。
幕の開き方ものんびりで、「これから素晴らしく面白い芝居をやるんだぞ」という重々しさが伝わってくる。うまいこと観客を焦らせておいて、雰囲気のある大序で芝居の世界に引っ張っていく・・・という手法はとても効果的だ。幕が開いてからも、趣のあるなかに物語の鍵となる種がいくつも仕込まれていて見逃せない。

三幕目では、しっかりと笑いを取った後の師直と判官のシーンが少しくどくて眠くなるが、その後の破滅的な行動を呼び起こすための「溜め」となっていることに後から気づく。大序と三幕目のメインキャラは師直と言えよう。物語をドライブしていくキャラクターにこそ主導権はある。富十郎さんの演技は実に安定している。
四幕目はそこそこ。由良之助のキャラは限りなく美味しい。
道行は、晴れやかな雰囲気の中に悲劇的現実を映し出す歌舞伎的手法がうまく使われているように思う。

五幕目、六幕目は去年の浅草歌舞伎で見たのだけれど、こちらのほうが格段にダイナミックで芝居の完成度が高かったように思う。「金は女房を売った金、打ちとめたるは・・・舅殿」の流れが非常にスムースでよかった。仮名手本忠臣蔵の物語の中で、最も陰惨でありながら一番物語の核心(武士の世界の無常さ)を感じさせる幕だと思う。

七幕目は六幕目の暗さを吹き飛ばすような華やかな幕で、最も充実していて分かりやすくてキャッチー。仁左衛門さんはなんといっても華があってよい。玉三郎さんとのコンビは息もピッタリあっていて、演技としても芝居の雰囲気としても、全て楽しめる。

十一幕目は「オチをつけるために実直に派手な芝居をやる」という感じ。個人的には、歌舞伎的・日本人的な美的感覚を優先させてこの幕は演じなくてもよいのでは、と思ってしまうのだが、雪のしんしんと降る中で派手な立ち回りをやって、きちんと物語のオチがつく、ということでついつい見てしまいたくなる気持ちもとてもよく分かる。

初めての通しだったので、これが自分の中での忠臣蔵のひとつのスタンダートになる予感がしている。これからいろんな忠臣蔵を見ることになるとして、全て今回見た芝居と比較しての印象になっていくのだろう、と思うと感慨深い。
富十郎さん、幸四郎さん、それに仁左衛門さんという素晴らしい役者さんがそれぞれのキャラクターにあった大役を生き生きと演じている今回の芝居は、とても魅力的で面白かった。

**

ひょっとすると邪道なのかもしれないが、脚本を手元に抱えながら浄瑠璃の文句をフォローしながら芝居を見るのは、個人的にアリと感じた。演技だけからは把握しにくい登場人物の微妙な心情や、今起きようとしていることがひとつひとつ手に取るように分かり、あらかじめ予習しておけば大事なシーンを逃すこともない。

忠臣蔵や千本桜に共通しているのは、物語の根底を流れる絶対的「真」の存在と、いくつかの偶然による出来事、そしてそこから生じる物語の流れに翻弄される人たちがドラマ性たっぷりに描かれている、ということのように思う。人の世界に溢れる悲劇的要素を全て繋ぎ合わせて、最後の最後にハッピーエンドに持っていってしまえる力強さが歌舞伎にはあるのではないか、と思った。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

第五回・亀治郎の会

国立劇場・小劇場でやっていた「亀治郎の会」夜の部へ。
今年はじめの浅草での亀治郎さんの印象が強烈で、3月の三谷幸喜による脚本でやっていたパルコの歌舞伎を見逃していた流れ上、某知り合いから「いいよ~」と勧められたのをきっかけに迷わずチケットをゲットしたのだった。

安達原は1月に歌舞伎座で見たのだけれど、1月のものは袖萩が入ってくるシーンからはじまっていたために話の筋が分かりにくくなっていたのをこちらでは見事に解消していた。

父の敵と一緒に家を逃げ出した娘と、その敵によって窮地に陥った父。雪がしんしんと降る中、武士のプライドのために親子の面談も適わず、せめては、と差し出した子どもも家の中へは入れてはもらえぬ。
この悲劇を福助さんはひたすら泣くことによって表現していたように思われるのだけれど、亀治郎さんは押さえた演技と要所要所でのポイントをついた盛り上げで、涙も凍りそうな舞台を魅力的なものにしていたように思う。

ぶっかえりによる見あらわし、そしてそこからの貞任の暴れっぷりも見事。
一家再興のために頑張っていた安部兄弟が、仇である義家を前にここぞとばかりに平家の赤旗を広げる演出がとてもとても印象的。
この芝居は親子の悲劇と安部兄弟による敵討ちが中心線にあると思うのだけれど、両方の線の中心を亀治郎さんが表現していて、とても見応えがあった。

そして江戸時代に初演されて以来の再演という天下る傾城。
なんとなく脇役の人たちが少し実力不足のような気がしたのだけれど、筋書き本に唄の歌詞が載っていて、それを休憩時間を使っておおかた頭に入れておくことができたので、より楽しく見ることが出来た。
これまで踊りものはただ「きれいだな」とか「あぁ、いまは**を表現しているのだろうなぁ」とかそういう風に見ていたのだけれど、「浄瑠璃を聞きながら見る」ということがいかにその踊りの面白さに直結しているかが分かった気がする。

やはり、ちゃんと歌舞伎を楽しむのであれば、あらかじめ脚本に目を通しておいたほうがよさそうだ。
傾城姿の亀治郎さんは玉三郎さんのような「絶世の美女」というわけではないけれど、亀治郎さん独特のおかしさを意図的に消したとても品のある役作りをしていたように思う。
獅子の精になってからはとにかく元気で、あれだけたくさん首を回したあとで澄ました顔をしていた人は初めて見た。

個人的に亀治郎さんの面白さがもっと出てくるような芝居を期待していたのだけれど、今回は演目上そういったシーンは少なかったようだ。
でも、久しぶりの歌舞伎鑑賞をたんまりと楽しむことができた。
次の「亀治郎の会」にも是非参加してみようと思う。
それにしても7月の「天守物語」を見損ねたのは本当に残念だった・・・。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

地図について・歴史について

地図をぼ~~~っと眺めるのが好きだ。

初めて見つけた場所も、2回目に見つけた場所も、何度も何度も見つけた場所でさえも、同じように新しい発見のようなものを伴って目の前に現れる。
大体、見ていて飽きないし、必要なのは地図と、落ち着くことができる場所と、時間だけだ。

よく眺めるのは二宮書店の高等地図帳
寝転がって眺めるのに手ごろな大きさだし、情報量もちょうどよく多い。
去年の夏ごろか、「地学」を少しかじってみたいな、と思い立って買って以来、そっちの勉強はそっちのけで地図帳ばかり眺めている。

最近、よく読んでいるblog::TIAOで、宇宙から見たシルクロードというのが紹介されていた。

NASAの提供しているものなのだけれど、解像度が8192*8192でやたらとデカい。
でまぁ、これをパソコンのビューワーでそのままの倍率でこまごまとしたところを見たり、ズームアウトして周りを把握したり・・・というのを繰り返していると異様に楽しい。
地球の表面が緻密に描かれているだけではなくて、そこにあるなんともいえない現実感のようなものが楽しさを倍増させているような気がする。

そう、「行きたい」と思えば行けるんだ、という謎の自信を自分が持っているから・・・。

**

最近、なぜか歴史に縁の深い本を読んでいる。
現代文明論〈上・下〉(佐伯 啓思)生活の世界歴史〈10〉産業革命と民衆、それにローマ帝国衰亡史(ギボン)

それぞれ素晴らしい本なのだけれど、近代思想でも何でも、体系的に捕らえていくには図表のようなものが必要になる。
言ってみれば、思想や生活の歴史にとっての地図のようなものだ。

普通に考えるとこれは「年表」のようなものになると思うのだけれど、どの年表も「何が起きたか」「何があったか」を事実(と考えられているもの)の羅列として生真面目に並べているものに過ぎない。
例えば、世界史年表・地図

事実の羅列は羅列だけれど、何かを対象にした年表。
例えば、自分だけにとって興味深く映る歴史。

意図的に色眼鏡をかけた形で年表をうまく見せる方法はないかなぁ、と考えてみた結論がこれ

latex と unix のスクリプトを駆使すれば以外にも面白い表がサクっと作れる。
まっとうな DB からキーワードで <年>_<イベント>_<タイプ>とかを引っ張って、ファイルに落とせれば勝ち。
久しぶりに latex がいじりたくなって、ついつい意味のないものを作ってしまった・・・。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

より以前の記事一覧