「ほんとうの知的財産戦略について」私的解説

ちょっとサイバーでマニアックな法学者こと、白田先生が最近になって公開した文章「ほんとうの知的財産戦略について」を読んで色々と思うことがあったので、自分なりに考えたことをまとめておきたい。
(まだうまくまとまっていないのですが、とりあえず・・・)

まず、「ほんとうの知的財産戦略について」が言わんとしていることを勝手にまとめると、以下のようになる。

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- 議会制民主主義と自由主義経済は、ベストエフォート式でありながら、社会の枠組みとして現在求められる最良のものと考えられる -> そしてその前提として、自由かつ合理的に生きることができる「国民」という存在の必要不可欠となる
- 社会の基礎的な仕組みとして再利用され、存在し続けることができる innovative な思想、技術、および経済システムこそ、本当の意味での「知的世襲財産」と言うことができる
- 自助努力によって個人の幸福が約束される可能性が残されている自由主義の世界は、昔風の共同体よりも個人個人の幸福度が高い!(と思われる)
- 情報や知識は、それを受容する人たちによって価値が決まってくる。(コンテキストなしに情報や知識は存在し得ない)
- 商業的な目的で配布された著作物が世の中に蔓延していて、世間一般の人たちによるクリエイティビティーが発揮されていない、という現実があるのではないか?
- 商業的な目的で守られるべき「著作権法」と、学術的・人格的な目的で守られるべき「著作権法」は異なる性格を持っている -> 二階建て理論 (前者の目的で著作権法を利用したい場合は、登録する義務を課する)
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この文章を読んで痛感するのは、現代の人類が発明や発見の喜びから一番遠ざかっている、という気づかれにくい事実だ。今日における「知識」とは、誰かしら昔の人が発見した情報を「教育」という名のもとに「知る」ことで、日々の生活の中で自分で努力して発見する、というプロセスがどんどん古臭い不必要なモノとして敬遠されてしまうような風潮があるのではないか、と思う。
もちろん、あらかじめ誰かが学んだことを共有することができるからこそ現在の文明があるわけだけれど、その共有される仕組みがあまりにも高度になって、それを利用していることさえもが見えなくなってしまうとどうだろう?

例えば、歌舞伎は「真似すること」で栄えた芸術である、ということができる。
著作権という概念の存在しない時代に、多くの芝居小屋が競って面白い演出や物語を発表していた時こそ、現代にも残る数多くの名作や素晴らしい演技の「型」が生まれ育った時代だ。
他の芝居小屋でかかった面白い芝居のよいところは真似され、勉強する役者は優れた先輩の型を真似ることで、より面白く、より優れたものが後世に伝わる。これは、著作権やら特許法だとかでがんじがらめになってしまった現代では到底真似することのできない、高度に自由で競争主義的な淘汰の仕組みであり、こういった環境の中でこそ素晴らしい思想や芸術作品が生まれてくるのだ、と自分は信じる。
これを「創造の場」と呼ぶことにしよう。

「著作権法」で守っている情報やアイディアとは、そのままでは何の価値もないガラクタのようなものだ。だから、情報やアイディアを一般的な「財」として守ることにはどこか違和感を感じる。
そのガラクタに「価値」という名の命を与えるのは今を生きる自分たちであり、その価値創造(=創造の場)をフェアーに保ちながら活性化するための仕組みこそが「著作権法」という名の制度なのだと思う。

「真似すること」は人間の行動様式の中で最も根源的なものであり、最も大切なものだ。
近代文明の成立に寄与している文字や数学、物理学、それに社会の仕組みは、今を生きる我々からしてみれば当たり前のようにそこにある「知識」や「制度」だったりするわけだけれど、それぞれの時代のパイオニアとして生きてきた先人達の知恵と、それを生かすべく努力してきた数え切れないほどの人々の血と汗の結晶であることを忘れてはいけないのだと思う。

創造の場がなくなってしまい、さらには先人の遺業を忘れ去られる時。
それこそが文明の滅びるときであり、偉大なる建築物が野に置き去りにされる時なのだ。

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TBLさんのブログの日本語訳

WWWを作ったTim Berners-Lee卿(2004年に功績を認められてナイトの称号を受けた)がブログをはじめたらしく、ひとつめのエントリーが興味深かったので翻訳してみた。
Creative Commonで公開している模様。

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1989年の時点では、WWWの主な目的は情報を共有するための場所を提供するものと考えられていた。それは、誰もがクリエイティブになれて、誰もが参加することができるためのスペースになるべきものだったように思われる。現に、世界で初めてのブラウザーは実はブラウザー兼エディターで、誰しもが好きにページを編集できて、もしアクセス権限を持っていたらそのページを書き換えることができた。

不思議なことに、ウェブはオフラインで編集した情報を公開するメディアとして離陸することになった。彼らは沢山のへんてこなブラケットでできたHTMLソースを編集する心構えができていたらしく、WYSWYG式のエディターを要求することをしなかった。WWWはすぐに面白いものによって彩られるようになったけれど、みんなで助け合って作り上げていって、みんなで情報を共有するようなデザインのものではなかった。

2005年になった今、我々にはブログやウィキがあり、クリエイティブになることができるスペースをみんなが望んでいる、という私の考えが馬鹿馬鹿しいものではなかったことを証明してくれたように思う。と同時に、自由に書き込むことができるウェブサイトを準備して、AmayaだとかNvuなんていうツールを使ってウェブページを直接自由に編集できることもできるので、これがあればブログの必要性もそこまでは感じない。結果的に、私のブログは技術的な記事にデザイン問題として取り上げられてしまった。

さて、ナビゲーションバーやコメントボタンを出したりするような管理機能は機械に任せたほうがよいだろう。そして、編集をするときにはサイトに最小限のダメージしか与えないで済むような方法でできことのが望ましい。なので、私はこのブログなるツールを使ってみようと思う。これは、私にブログを持つように勧めてくれた人たち全てに捧げよう。

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何のためのセキュリティーか

セキュリティー技術の有効な使い方について考えた。

コピーコントロールやアクセスコントロールに代表される権利を守るだけのセキュリティー技術であれば、結局のところ物理レベルのものに勝るものはない。本やレコードが物理的なボトルネックとして存在していた時代であれば、セキュリティーという考え方なしに複製物の拡散を防ぐことができたからだ。
出版ビジネスが苦境に立っているとはいわれるが、「海賊版が出回って売り上げが減った」とかタコなことを言わずに済んでいるのはこのへんに理由によるものだと思う。

アナログな複製メディアの時代、著作権者が求めていたのは「より安価に複製が可能」で、「より流通経路に乗せやすいもの」であり、大容量なデジタルメディアで劣化も少なく大量生産を前提にすればスタンピングのコストも安く済む光ディスクはその目的に合致していた。
だからこそCDを使った音楽ビジネスは2000年には世界あわせて250億枚ものCD売り上げを記録するような絶頂期を迎えることができたのだと思うし、そのことだけを考えてみれば光ディスクが開発された目的も達成されたようにも思われる。

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ただし、音楽CDの規格(Red Book)が制定された1981年に、コンピューターが猛烈に進化して一般家庭に入り込んでデジタルメディアを自由自在に扱えるようになり、インターネットのようなものが一般に普及することは予想されていなかった。デジタルなデータが記録されたCDからは音楽がいとも簡単に抜き出すことができ、それをインターネットで世界中に配ることができる・・・、というのだからたまったものではない。

そもそもインターネットというメディアの出現は(よほど巨大なデータでない限り)物理的な制約を受けずにデジタルなメディアをやり取りすることを可能にしたわけであって、ここに古来からの著作権者の目標であった「安く」「拡げる」技術の結末を見ることが出来る。
ではここで著作権者の関心の第一、「儲ける」ことを考え始めるとどうなるか。そう、古き良き昔の時代と同じように「縛る」こと。著作権という盾とセキュリティーという剣を使ってメディアをがんじがらめにした上でコピーさせないようにすること。これが彼らの選ぼうとしている道だ。

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さてこのあたりからようやく本題。
こうした流れを見てみると、著作権とかそういった小難しい議論は抜きにして「デジタルになったメディア」の「拡がり」という意味でパラダイムの変換が起きていることに気づく。物理的な制約をなくしたメディアは必然的に「自由」になってしまうのだ。

自由になりうるメディアを無理やり縛るとどういったことが起きるのだろう?昔話にあったように「王様の耳はロバの耳」と木のウロの向かって叫んでしまえばその場でその情報は発散されていたものが、「ほぼ完全な形」で録音されてほとんどリアルタイムで全世界に自由に複製されて流されてしまうようなシステムがあったとしたらどうなのだろう?
そのひとつひとつの録音されたメッセージ(メディア)が完全な形で複製可能である以上、一旦広がってしまったメッセージをコントロールする労力が途方もないものであることは容易に想像できるし、そもそもそれをコントロールしようと考えることが自体が馬鹿馬鹿しい行為であることに気づかされる。この辺が「メディア(=メッセージ)」の特殊なところだ。
つまり、王様の耳を見てしまった床屋は一生口をつぐみ続けるしか生き延びる術がないわけだ。

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さて、ここで「もしこのメディアが流れる通路を牛耳ることが出来れば」と考えることにしよう。要するに、セキュリティー技術でいう「通信経路の暗号化」という常套手段だ。これはネットワークに限ったことではなくて、光メディアやその他のメディアでも特定の機器からのみ再生可能にすることで達成できる。

これは一番単純に見えて、一番徹底することが難しい手法だ。言ってみれば、「自分が作ったメディアは自分で掘ったトンネルしか通しませんよ」というわけで、メディアが「広がる」ことを「意図的に」邪魔しているのだから至極当然の話である。もちろんDVDのセキュリティーみたいにきちんとした「規格」として成立させて啓蒙活動を行えば流行らせることはできるけれど、結局セキュリティーの一番の弱みである「運用」という段階でセキュリティーは無力化されてしまう。これは最新のAV機器のメディア伝送に使われているHDMIにしたって同じことだ。

その他にもそこかしこでDRMやらコピーコントロールやらアクセスコントロールなんていう素敵な単語を使って夢のような新しい世界を作ろうとしている人たちがいらっしゃるようだけれど、これらの技術がようやく「自由」に「拡がる」ことができるようになったメディアを縛りつけてしまう時代錯誤な考えに基づいた技術であることに変わりはない。

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ではセキュリティー技術は何に使えばよいのだろう?
このあたりで「著作権」が目指していた目標を改めて考えてみよう。

名和小太郎さんの「ディジタル著作権」という本には、著作権像の見本例として以下の項目が挙げられている:

(1) 著作者は、自分の著作物の表現を複製する人から、その対価を徴収できる (2) 著作者は、自分の著作物の表現を無断複製する人に、制裁を与えることができる (3) 公衆は、著作者に(1)および(2)の特権を報奨として与え、これによって当の著作者あるいは他の著作者の創作行為を刺激し、ひいては社会における著作物の生産量を増やすことができる (4) 公衆は、著作者への(1)および(2)の特権付与を一定期間にかぎり、その後においてはその著作物を自分たちの共有財産にすることができる

こうして見てみると、著作権は著作者および公衆双方にとって有効であることが期待されていることが分かる。目の前の利益にしがみついてただひたすらコピーができないようにするのが「著作権」ではなく、創作行為に対して価値を与え、その価値を守りつつ有効活用することこそが著作権の正しい使われ方なわけだ。

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さて、既存の考え方では「拡げるコスト」がある一定のコストであることを前提を元にメディアは売られてきた。だがこれからは「拡げるコスト」が限りなくゼロになり、「誰しもが拡げる力を持つ」ことになった世界を前提に考えていくべきだと思う。
そうした場合にセキュリティー技術はどのように使われるべきだろうか?
とりあえず現在の個人的な意見としては、

(a) 著作者情報の保持と報酬の請求権の提供
(b) メディアを拡げるためのからくり
(c) 「ご開帳」的ありがたさの表現(?)

このようなものとして活用されると面白いのではないかと思っている。
(a)は、それがそのまま単純にコピーコントロールやアクセスコントロールに結びつくべきものではないと思うし、セキュリティー技術をうまく用いることで(b)を成立させることも可能だと思う。
何にせよ、公衆の利益を考えないセキュリティー技術は長い目で見れば確実に廃れるはずなので、もっと面白いことをやれたらいいなぁ、と思う今日この頃だ。

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なんだかまとまらない文章になってしまったけれど、再編集するのが面倒なのでとりあえず掲載しておこう・・・。

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findu.com構想

大学時代の友達(今はプリンストン大学)からメールが来て、bebo.comなるところでアドレスを教えてくれ、というので使ってみた。

友達のコンタクト情報を管理してくれるシステムなのだけど、実は僕も全く同じアイディアをfindu.comという名前で構想していたのだった・・・(本物のfinU.comとは関係ありません)。

旅の途中や、ちょっとしたきっかけで知り合いになった人のコンタクトって非常に忘れやすい。
で、「そのコンタクト情報をきちんと管理してくれて、セキュリティー&プライバシー的にも配慮されているシステムがあったらいいぁ・・・、っていうか自分で作るか!」な~んて思っていて、ちょこちょことアイディアをメモしてたりしていたのだけど、どうやらbebo.comに先を越されてしまったらしい。
最近の写真をアップロードして、「最近こんな感じ~、みんなどうよ?」みたいにする部分も自分の構想の中にはあって、その部分まできちんと作られている・・・、となると、もはや自分の出る幕は無くなってしまったようだ。

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この手のシステムで重要なのはなんといってもプライバシーの問題で、ひとつ間違うとただの出会い系サイトのようになってしまう可能性がある。
仮に僕が友人Aの現在のコンタクトを知りたがっているとして、もし友人Aが僕に教えたくなかったとすれば、友人Aはそれを拒否できるようになっている必要があるし、間違った人をきちんと弾けるからくりも必要になる。
登録が完了した後、リクエストを送った友達の承認を得た段階で初めて彼のリストに登録される、というプロセスが存在しているようなので、どうやらこの辺りの問題はきちんと越えているらしい。

bebo.comのAbout usを読めば分かるけれど、彼らのモチベーションも簡単な言葉で言い表されてる。
> 誰だって昔の友達のコンタクトはなくしてしまうものです、Beboはこの過去の問題を解決するお手伝いをさせていただきます。

.com バブルの時代って無駄で意味もないようなサービスが乱立していたけれど、最近はこういう風にきちんと明確な意図を持ったサービスが増えてきたようで、とてもよい傾向だと思う。
開発者の1人のPaul Birchは僕と同じ大学卒業らしいのだけど、「インターネットを通じて、人々の生活に小さな幸せを運びたい」みたいな言葉にすごい共感を覚えた。

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BBC announces "Creative Archive"

前々から“こんなサービスあったらいいよなぁ”と考えていたCreative Commonsの活用方法がBBCで実現されるらしい。

BBC Creative Archive pioneers new approach to public access rights in digital age

どういうものか、というと BBC がこれまで放映してきた番組の中から、ドキュメンタリーやニュース番組などを視聴者がCreative Commonsライセンス(非商用(恐らくby-nc))で自由に入手できるようにし、効果的な再利用を促そう、という試み。
去年の8月にはエジンバラのテレビ・フェスティバルで発表していたらしいのだけど、アンテナにひっかかってなかった。

例えば、ニュース番組をある特定の分野に絞って並べ、時代の変移を描くような面白番組を自分の手で作れたり、BBC作成のクオリティーの高いドキュメンタリー映像の美味しいところだけを拾って自分の作品に(非営利)に活用したり。
“商用利用が不可能な公共財”とでも考えればよいのでしょうか?

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純粋に頑張ってほしいです。
将来的にはスポーツ番組(放映権の都合上流せないのは多そうだけど・・・)や音楽やドラマなども提供されるようだけど、BBCはニュースとドキュメンタリーだけで相当レベルが高いので当面はこれらだけで面白い映像を作れそう。

これまでの視聴者はあくまで視聴者である、という常識をあっさり覆してくれるようなプロジェクトに成長することを願います。

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Slashdot Japanで紹介されてたこの記事もなかなか参考になる。

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波状言論

そういえば、ちょっと前に波状言論への登録が完了した旨を告げるメールがきた。
銀行で振り込むのを1回忘れ、今回も期日ぎりぎりになって払い込んだのだが、すっかり忘れていた。
すでに発行されている分が、一部250円で売っている。
月300円だから、1部あたり100円高くなってしまうわけだけど、内容に比例しているのであれば問題なさそう。

とりあえず、ただで公開されている準備号を読んでみる。
まだ全部読んでないけど、パーソナルパブリッシングに関しての意見はとても示唆的。

ずぅ~~っと前によく読んだ、伊藤元重さんの「市場の法則」でも1%経済と99%経済についての考察があって、うんうんとうなずきながら読んだ覚えがある。

「ソフトウェアは質を量に変換するものだ」という意見があるが、まさにその通りで、自分で組版して友達のデザイナーに頼んで一冊の本ができる世界はとても楽しそう。
というか、個人的な意見、これからは間違いなく、そういった世の人たちのクリエイティビティーを満足させるためのフレームワークこそが必要とされているのではないか、と思う。

となると、現在 MS が XNS でやろうとしている「」整備されたプラットフォーム」という考え方のほうが、クローズドな世界観よりも勝っているのではないか、と思わされる。
ここらへんで議論されているけれど、XNSが提示している未来のゲームプラットフォームは、「イノベーションのジレンマ」的破壊的技術に十分になりうるのではないか、と。

ソニー、または SCE が改革してきたものはとっくに時代遅れになっていて、時代の焦点はあくまで個人のコミュニケーションに向かっているのではないだろうか。

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著作権と音楽の未来

なぜか世界で日本だけに行なわれているCD(レコード)レンタル

音楽配信メモで紹介されてた。

「アメリカのレコード会社の偉い人が、日本のレンタル屋のレジの横に積まれたMDを見て愕然として、欧米音楽のレンタル禁止に繋がった」って話は聞いたことがあったけど、確かに電器会社とレコード会社の繋がりなんかを考えると、この記事で書かれていることの言わんとしていることがよく分かる。

よく、タイ人や中国人が海賊版を平然と街中で売っているのを指して「ひどい」なんていう日本人がいるけれど、現在の日本人がそれなりにちゃんとお金を出してソフトウェアを買っているのは、

- 買うお金がある(これ重要)
- 世間的に「ソフトウェアは買うものだ」という空気がある

という条件だけに依存している気がする。
逆に言うと、

- お金があまりない
- 音楽はネットからmp3とかでダウンロードできてしまう

現在の若い学生なんかの立場を考えれば、近い将来、我らが日本村に「ソフトウェアにお金を払うのはバカだ」という空気が蔓延し、中国人なんかがよく言うように、誰もが「だって安いじゃん」という至極単純で合理的な判断を下すようになってしまう可能性は大いにある。
というか、既に世間一般的にこういった風潮が蔓延しつつあるのではないか、と感じることも多い。

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最近、カナダに行ってる友達が帰ってきていて、話していたら「P2P、「ダウンロードは合法」:カナダの著作権監督機関」(CNet)の判決の話が出てきた。

そもそも、カナダはもとから著作権啓蒙活動の実があまり生っていない国で、PS2なんかも改造が基本らしい。
当たり前の話だけど、著作権を守ることで自国に対して利益が入りにくい(つまり大手のソフトウェア会社がない)国では、著作権啓蒙活動が成功することはほとんどないように思える。

「きれいなビジネスなんてないんだ」という考えもあるかもしれない。
だけど、音楽は「ビジネス」である前に、自己表現であり、文化であり、芸術だ。
もちろん、この音楽がビジネスになることによって得られたメリットもあるだろう。
例えば、しっかりしたマスタリング設備や、販売、流通経路、それにプロモーションの存在だ。

映画やゲームに関して言えば、その作成・開発にかかる期間や人員、それに設備を考えればビジネスとして成り立つものとしてそれなりにすんなりと理解できる。
でも音楽はもっとシンプルなものだ。

ミュージックファンドという興味深いプロジェクトが立ち上がっているのだけれど、このままでは廃れていってしまうかも知れない音楽業界を助けることが出来る可能性を持った構想の一つではないのかな、と思う。
もちろん「浜崎あゆみ」や「モーニング娘」が生まれることはないだろうけれど、主体性を持って音楽を聴く人が集まることによって「サニーデイサービス」や「キリンジ」のようなミュージシャンが生まれ、育まれる可能性を助長してくれるのではないかな、と期待している。

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ソフトウェアと著作権、そして金

プレイステーションの著作権侵害裁判なる“事件”が起こっているらしい。

ごくごく簡単に言うと、「俺が書いたプログラムで儲かったんだから分け前はずめや」という主張ですね。
詳しいことはもうちょっと調べてみないと分かりませんが、「中村教授の再来」になる可能性もゼロではないわけで、なかなか面白いケースと言えるかも。

パッと見た感じ、外注さんにコーディングの仕事を投げた際のインセンティブを含めた契約が曖昧だったことに起因する事件のように見えます。
納品後の契約書にサインをして、いくらかの報酬は受け取っているようなのですが、「意志的には同意していない」という主張が通じるのかは疑問。

3-(3)の著作権に関する議論が一番興味深い。
契約書への署名の無い状態で成された仕事に関して、著作権が原始的に個人に帰属する、というは原理的に納得できる。

さらに、著作人格権に関する言及も行っていて、「俺の書いたコードを弄るなヨ」と。
・・・これはエンジニアとしては心が痛むな。
そんな事言われたらメンテできないし、バグがあったらどうするんだろう・・・、とか思ってしまう。

問題は、これらのコーディングの仕事がSCEの業績にクリティカルな影響を与えたか否か、という点になるのでしょうか?

いずれにせよ、プログラム開発を携わるものにとってはSCOのケースなんかと同じく、避けて通れない議論を含んだ事件な気がするので、続報に期待したい。

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地図のクリエイティビティー

今週末登る山の地図データを探していたら、日本地図センターに行き当たった。

詳細な情報が載っている登山地図よりも、目下読んで勉強している2万5000分の1地図()を持っていきたいなぁ・・・と思ってうろうろしていたら、全国の彩色&2万5000分の1な地形図があった。

ライセンス情報が明記されていないのでどこまでの利用が許されているのかが分からないのだけれど、少なくとも今週末に登る予定の大菩薩嶺周辺は、2枚の地図を切り張りしたらうまくカヴァーできた。

探してみたところ、国土地理院では承認申請FAQがあり、そこを読む限りではデッドコピーの再配布と成果品の作成または配布を禁止しているようだ。
しかし、特定の条件を守ることで、申請手続きが不要になるらしい(それでも出所は書かなくちゃダメ)。

人の生活に不可欠な情報を政府が公正なる手段で作成し、それを然るべき方法で人々の生活に役立つ形で還元する・・・という美しいお話が、この分野においてはそれなりに成り立っているように思えた。

ま、爆発的にお金になる物じゃ無し・・・、ね。

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拡げるためのクリエイティブ・コモンズ

Creative Commonsという考え方がある。

スタンフォード大学の法律学者であるローレンス・レッシグ教授が提唱した、人間の知的価値創造の共同化に対する一つのアプローチ、とでも言えばいいのだろうか?

人類の歴史が始まって以来、人は沢山の知的価値の創造を行ってきた。
人が考えるのが、人が人であるための条件であるとするならば、人が何かを創り出すのは、正に人が生きていることの証明、とまではいかなくとも、人間存在において何かしら重要な意味・価値を持つ行動である言えよう。

現代、特にデジタル機器が発達して以来、人が何か創り出す土壌が、一部の人々のみによって独占される傾向が強まっているのではないだろうか?

本来、デジタル機器や、インターネットなどの存在は、情報の輪を拡げるために存在すべきものである。
これは、とりもなおさず人間の創作活動における、創作者と消費者との溝を埋めるべきものであって、溝をさらに深くするものでは間違ってもない。

モノ・カルチャー、という言葉がある。
日本は典型的にモノ・カルチャーの国である、と言われることが多いのだが、デジタル機器や、マスコミ、それに街を歩けば聞こえてくる甘ったるいラブ・ソングは、売れば売るほど儲かる企業の立場からすれば絶好のチャンスであり、多様的な文化を愛する人にとってはセイレーンの歌声であると言える。

では、我々は、これからこのデジタル機器や、進化し続ける通信技術を使って何をすればよいのだろうか?

答えは簡単だ。
情報をただただ消費するだけではなく、発信する側にまわればよいのである。

2004年初頭の現状を察するに、おそらく、これから数年の間は、現代のようなプロフェッショナルとアマチュアが明確な分水嶺をもって別れている状況が続き、片方は商業的成功を求めてひた走り、片方は独自の地平線を開拓していくのであろう、と思われる。

そして、次第に人間の創造性、という名の下に、これら2種類の立場はゆるやかに溶け合い、結合していくのであろうと思う。

この際に、有用になるであろう概念が、Creative Commonsだ。
名前を売り込みたいアマチュアが、Creative Commonsのネットワークの海へと自分の作品を売り込むことで、純粋な作品の良し悪しによって評価され、上手くいけば名前を売ることが出来る。
お金を使うことにやぶさかではない企業なり、商業媒体なりが、世間的にも評価されたこのクリエイターの作品を、恐らくはCreative Commonsではない縛られたライセンスで利用することでクリエイターは飯の種を得ることができる。
例えば、こういったモデルが確立されることによって、クリエイターはインセンティブを得ることが出来るはずだ。

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2ちゃんねる、という世界でも稀な掲示板文化が日本にはある。
みなが同じような文体で話し、同じようなAA(アスキー・アート)を張る。
と同時に内部的には相当に複雑で多様な意見を含んだ、いわば情報の見本市である。

日本人の多様性は、現代の大量消費社会において、超高度資本主義経済 ((C)村上春樹)の名の下に、殺されかけている、と言ってもいい。
みなが同じような仮面を被って、同じようなものを消費し、同じようなものを夢見ている。

多様性なくして人間の未来はない、と言ってしまうと大げさだが、これからの社会で生き生きとして見えるのは、自分の人生を生きている人たちであり、また、日本人の仮面の下には、複雑で、多様で、底抜けに楽しい魂が眠っている、と自分は確信している。

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ネットはなぜ「プロ/アマ」の境界を崩すのか

レッシグ教授へのインタビュー記事

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