「ほんとうの知的財産戦略について」私的解説
ちょっとサイバーでマニアックな法学者こと、白田先生が最近になって公開した文章「ほんとうの知的財産戦略について」を読んで色々と思うことがあったので、自分なりに考えたことをまとめておきたい。
(まだうまくまとまっていないのですが、とりあえず・・・)
まず、「ほんとうの知的財産戦略について」が言わんとしていることを勝手にまとめると、以下のようになる。
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- 議会制民主主義と自由主義経済は、ベストエフォート式でありながら、社会の枠組みとして現在求められる最良のものと考えられる -> そしてその前提として、自由かつ合理的に生きることができる「国民」という存在の必要不可欠となる
- 社会の基礎的な仕組みとして再利用され、存在し続けることができる innovative な思想、技術、および経済システムこそ、本当の意味での「知的世襲財産」と言うことができる
- 自助努力によって個人の幸福が約束される可能性が残されている自由主義の世界は、昔風の共同体よりも個人個人の幸福度が高い!(と思われる)
- 情報や知識は、それを受容する人たちによって価値が決まってくる。(コンテキストなしに情報や知識は存在し得ない)
- 商業的な目的で配布された著作物が世の中に蔓延していて、世間一般の人たちによるクリエイティビティーが発揮されていない、という現実があるのではないか?
- 商業的な目的で守られるべき「著作権法」と、学術的・人格的な目的で守られるべき「著作権法」は異なる性格を持っている -> 二階建て理論 (前者の目的で著作権法を利用したい場合は、登録する義務を課する)
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この文章を読んで痛感するのは、現代の人類が発明や発見の喜びから一番遠ざかっている、という気づかれにくい事実だ。今日における「知識」とは、誰かしら昔の人が発見した情報を「教育」という名のもとに「知る」ことで、日々の生活の中で自分で努力して発見する、というプロセスがどんどん古臭い不必要なモノとして敬遠されてしまうような風潮があるのではないか、と思う。
もちろん、あらかじめ誰かが学んだことを共有することができるからこそ現在の文明があるわけだけれど、その共有される仕組みがあまりにも高度になって、それを利用していることさえもが見えなくなってしまうとどうだろう?
例えば、歌舞伎は「真似すること」で栄えた芸術である、ということができる。
著作権という概念の存在しない時代に、多くの芝居小屋が競って面白い演出や物語を発表していた時こそ、現代にも残る数多くの名作や素晴らしい演技の「型」が生まれ育った時代だ。
他の芝居小屋でかかった面白い芝居のよいところは真似され、勉強する役者は優れた先輩の型を真似ることで、より面白く、より優れたものが後世に伝わる。これは、著作権やら特許法だとかでがんじがらめになってしまった現代では到底真似することのできない、高度に自由で競争主義的な淘汰の仕組みであり、こういった環境の中でこそ素晴らしい思想や芸術作品が生まれてくるのだ、と自分は信じる。
これを「創造の場」と呼ぶことにしよう。
「著作権法」で守っている情報やアイディアとは、そのままでは何の価値もないガラクタのようなものだ。だから、情報やアイディアを一般的な「財」として守ることにはどこか違和感を感じる。
そのガラクタに「価値」という名の命を与えるのは今を生きる自分たちであり、その価値創造(=創造の場)をフェアーに保ちながら活性化するための仕組みこそが「著作権法」という名の制度なのだと思う。
「真似すること」は人間の行動様式の中で最も根源的なものであり、最も大切なものだ。
近代文明の成立に寄与している文字や数学、物理学、それに社会の仕組みは、今を生きる我々からしてみれば当たり前のようにそこにある「知識」や「制度」だったりするわけだけれど、それぞれの時代のパイオニアとして生きてきた先人達の知恵と、それを生かすべく努力してきた数え切れないほどの人々の血と汗の結晶であることを忘れてはいけないのだと思う。
創造の場がなくなってしまい、さらには先人の遺業を忘れ去られる時。
それこそが文明の滅びるときであり、偉大なる建築物が野に置き去りにされる時なのだ。